真理ってなんだろう?

何が正しく、何が間違いなのか?それを見極めるには「疑う」「考える」ことが必要だ。

「ごく普通の幸せを追求したいけど、社会からのステータスも得たい」そんな矛盾の心について

「趣味などの自分だけの時間を大切にして、家族を幸せにできるくらいの給料があればいい。仕事はほどほどに、週末や夜の時間は家族と過ごす時間を大切にしたい。」

 

どんな生活が理想ですか?

 

私が就活生に質問をした時によく聞いていた言葉です。

 

しかし、どんな会社に入って、何を得たいのですか?と聞くと

 

「給料のいい会社にはいって、ステータス、富、名声を得たい」

 

そんな回答が帰ってきます。あれ?さっき話していたこととちがくね??

 

自分は違うとおもっている人もいるかもしれませんが、誰しも心の中には都合のいいように解釈してしまう「自分」を宿しているものです。

 

高い給料を得て、名声を得て、有名会社のブランドで他人から羨望の眼差しを得て、仕事はほどほどにプライベートも充実させて、家族の時間も大切にする。

 

自分の睡眠時間を極限にまで削って、他人よりもスーパー優秀で他人よりも1/10くらいの時間で仕事を終わらせるような人間だったら両立が可能でしょう。しかし、現実問題は難しいです。

 

誰だって、他人からいいように思われたいし、家族も大事にしたいと思っている。しかし、時間は誰しも平等に与えられ、限られたものである。その中で自分なりに時間を配分していかなくてはならない。

 

一番ベストな時間の投資というのは、自分の目標値からおろしてきて、優先順位の高いことに対して時間を割くことです。自分はどんな人間になりたくて、そのために今は何をしなくてはいけないのか。ということです。

 

だけど、間違ってはいけないのは「こうしなくてはいけない」「こうすべきだ」などの「べき論」物事を決めてしまうこと。自分の「したい」は二の次に「すべき」事柄だけを行っていると、いつまでも自分の「したい」は達成されないサイクルに迷い込んでしまいます。この「べき」と「したい」を履き違えることがそもそもの「矛盾」のスタートだと考えています。

 

社会のステータス、価値基準は他人の物差しと過去の価値観の「かたまり」に過ぎず、みながみなそれに従わなければいけないということではありません。すごい、羨ましいと思う基準はなんでしょうか?実際に「人」に直接関わっているわけではないのに、すごい、うらやましいと思うのは何故なのでしょうか?

 

それは「疑うこと」を人々がやめ、一番楽な「考えない」生活をしているもっぱらの証拠です。そんな社会では「うわさ」が勝手に一人歩きし、誰かが「すごい」と言ったらそれはやがて「すごい」と判断されるまでに人々が勝手に押し上げていきます。気づいた頃には、「あれはすごいらしい」「自分もああなりたい」とそんな感情を抱くようになる。この大衆心理の集合とも呼べるようなものが「社会のステータス」だと考えています。

 

この社会のステータスなんて時代によって変わっていくものなのに、それに固執して自分の「判断」の材料にしてしまう。自分が「したい」からではなく、「こうしたほうがよい」から「すべき」だから。そんな気持ちが先にきてしまう。だからこそ、人々は自分の中の大いなる「矛盾」に苦しむことになる。自分は「したい」とおもっている。しかし、行動には移せないし、どうしたらいいのかもわからない。よりベターな答えを見つけたつもりでもなんかパッとしない人生になってしまっている。

 

それはやはり、自分の価値基準で物事を選んでなく、他人、社会の価値基準で物事を判断しているから。最終的には自分自身でこれが「正しい」「正しくない」と判断しなくちゃいけないのに、それを他人、社会の判断に頼っている。だからこそ、納得などしない決断になってしまっている。

 

自分自身の判断で決断し、行動している人は周りから羨望の眼差しを受ける。その人には何か特殊なオーラがまとわりついているように見えるからだ。何をするにも自信があり、なによりも正しいと自分で信じていることが魅力的にかられる。そんな人材に他の人々は引き寄せられ、結果的にそういった人たちが「すごい」と呼ばれる対象として認識されていく。

 

つまり、本当に「すごい」と呼ばれるひとになりたいのであれば、他人の価値判断から物事を決定しているようではダメなのだ。自分の価値判断を持ち、それで他人から「すごい」と呼ばれるような対象として大きくなっていかなくてはならない。

 

だからこそ、もう一度、自分の「価値観」とは何かについて考えてみよう